かつて伝統的でないある種の作品を前にした人々は、「これは
芸術か否か」とか「この意味は?」と問いかけ、答えを
求めたものであった。

今では「何か」を表現した作品や、想像力を刺激する作品も
芸術としてその場を占めるようになった。
こうした彼の作品の前では、ただ魅了され引きこまれるばかり
であり、なにか昔からそこにあった自生的なもの、自然に
生まれ出た物を見ているようだ。これらの作品は、よく見ると
大きさの概念を越え、中のいくつかは、その底部が地面と
接していない事も手伝って、「重さ」さえも感じさせない
事に思い至る。

山の如く巨大でもあり得るし、ポケットに納まるほど小さく
もあり得、大きさの感覚を失わせてしまう。
まるで自分の家にいるように自然の中に納まって、小石の
ように表裏も左右もなく、どの面も正面かもしれず、太陽は
それに光と陰を投げかけて戯れる。・・・この作品は太陽の
ためだけに作られたのだろうか・・・日の光がゆっくりと「物」
の上を過ぎると、陰影の戯れと光のするどいカットが「物」の
相貌を多様に変化させる。

侃の他のフォルムは門か通路のようで、「外」があるのか
「内」があるのかははっきりとは分からない。
まるで木と藁で作られた昔の日本の家のようで、一貫した
普遍性をもたず、正面がないのか、どの側も正面なのか、
外部は内部で、外部は家に入りこむ。
無限なるものに「外」はない。
門は開いていて、家に盆栽が襖や障子に囲まれて時々置かれる
ように、木々の間に置かれている。雲は無心に彫刻の上を
流れゆき、雨の雫は跳ねかかり戯れる。太陽や雨に任せ、
我々も又安田侃の作品と共に自然の一部となろう。

何をも表象しない作品は、あらゆるものを内に籠めていると
言える。彼の作品は、ただ一つの「意味」さえ持たずして、
時によっては十万もの刺激を与え得る。

 

真無 ミラノ「彫刻の道」展

真無 ミラノ「彫刻の道」展 Photo by Kozo Watabiki

 

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