安田侃先生の彫刻に初めて出会ったのは、2003年のシドニーだった。東京を拠点としたキャリアを終えて、オーストラリアに戻った直後のことである。東京を離れた私は、自分の居場所を失ったような不安と心もとなさを感じていた。帰国という決断が正しかったのだという確信が欲しかったし、新たに自分の街となったシドニーに、誇りを感じる理由が必要だった。私は東京の最良の時代を生きてきた。1970年代後半から80年代にかけての、世界中から称賛された先鋭的なファッション、建築、芸術の時代である。そして私の会社員としてのキャリアは1990年代から2000年代、バブル崩壊後の東京がモニュメンタルな芸術と建築を通じて自らを再発見していく時代と重なっていた。

それに比べて、シドニーは当初、醜い街に見えた。植民地時代以降に建てられた風格ある砂岩建築の多くが失われ、1920年代末、1960年代、1980年代に、のちに汚職が明らかになるシドニー市議会が承認した、粗悪な設計のオフィスビルに置き換えられていたからである。この街との接点を求めて、私は若い建築家グループが主催するガイドツアーに参加した。彼らがシドニーの街並みと、その後、市議会が質の高い建築やパブリックアートを奨励するために採用した政策について、誇りと深い知識を持っていることはすぐにわかった。本稿に一つだけメッセージがあるとすれば、自分の住む街のガイドツアーに、ぜひ参加してほしい。芸術、建築、歴史の専門家に案内されて自分の街を歩き、その知識を通じて、もう一度自分の街に恋をしてほしい。

私はそのグループが提供するすべてのツアーに参加し、やがて彼らの目を通して、新しい我が家となった街の建築とストリートアートに魅了されていった。その物語の中心にあったのが、フィリップ・ストリートに建つレンゾ・ピアノ先生設計のオーロラ・プレイス、そしてその前に立つ大作、安田侃先生の「Touchstone」(2000年、一塊のカッラーラ産大理石から彫り出された作品)である。シドニー・オペラハウスが、この街で――おそらくは世界でも――最も美しい建築の一つであることは、いまさら言うまでもない。ツアーを通してウッツォン先生の傑作についてすでに深く学んでいた私は、オーロラ・プレイスの前に立ち、「Touchstone」にそっと手を置いていた。

オーロラ・プレイスとオペラハウスとの間に流れる、静かで敬虔ともいえる関係に、私は深く心を動かされた。ここにあったのは、シドニーの最も新しく美しい建築であり、その傍らに立つにふさわしい、日本人芸術家の彫刻だった。世界有数の美しい港を背景に広がるオペラハウスの「帆」の穏やかな曲線は、オーロラ・プレイスのガラスファサードの曲線にも、「Touchstone」の精妙な曲線にも響き合っていた。ようやくシドニーに、味気ない四角いオフィスビルではない、新しい建築が生まれたのだ。私が誇りにしてきた東京の素晴らしい新建築群と肩を並べられる建物が。

そして素材である。素人目にも、そのカッラーラ産大理石が世界最高級のものであることは明らかだった。後に知ることだが、この質の石こそが、安田先生が1974年以来ピエトラサンタに暮らしてきた理由だった。半世紀以上にわたり採石場の職人たちとの関係を築き、深い敬意を得てきたからこそ、山肌から特別な原石が切り出されると、「マエストロ安田、恐れ入りますが、新しい石をご覧になりますか」と声がかかるのだという。この素材の質感には抗いがたいものがある。私は思わず手を伸ばし、触れずにはいられなかった。そして今では、少なくともパブリックアートにおいては、安田先生がまさにそのような反応を歓迎していることを知っている。

オペラハウスの屋根は100万枚を超えるセラミックタイルに覆われている。シェブロン(山形)模様に並べられたタイルは、スウェーデンで厳格な基準のもと製造された。光沢のある白とマットなクリーム色の2種類が使われ、自浄作用を持つよう設計されており、港の青を背に輝いている。

ウッツォン先生は、シェルが水面を映すのではなく、水面を背景にして浮かび上がることを望み、鏡のような反射を避けた。オーロラ・プレイスでピアノ先生が用いたのも、同じように反射を抑えた素材だった。オレンジ色の、砂岩を思わせるテラコッタである。かつてシドニーの街並みを特徴づけ、今もところどころに残る温かな砂岩への呼応だった。ジェノヴァの建設業の家に育ったピアノ先生は、テラコッタをはじめとする職人的な素材に長く親しんできた。テラコッタの基壇の上には、白いガラスの「帆」とフィンが立ち上がる。各ファサードの頂部で先細りし、折れ曲がるフリットガラスの外皮である。それらは、わずか800メートル先にあるウッツォン先生のシェルへ意図的に呼応している。ピアノ先生は、その存在を設計における決定的な文脈のひとつとして受け止めていた。

 

タッチストーン オーロラ・プレイス、シドニー
タッチストーン オーロラ・プレイス、シドニー"

タッチストーン オーロラ・プレイス、シドニー

 

この頃には、新しい我が街の美しさへの疑いは消えていた。世界屈指の建築が二つあり、そこに、私が愛してきた日本の芸術家による見事なパブリックアートが加わっている。そのことが、シドニーへの誇りとなった。それだけでも十分だったが、ツアーはさらに踏み込み、ピアノ先生と安田先生の関係を語ってくれた。「Touchstone」は、建物が完成した後に付け加えられた作品ではないという。ピアノ先生はかねてより、安田先生がピエトラサンタで制作を続けてきたことに敬意を抱いていた。ピアノ先生自身も、石彫と建築の世界を通じて、この町と深い結びつきを持っていたのである。

ピアノ先生は、安田先生の作品について幾度も温かく語っている。2015年、「Touching the Time」展(ピサ)に寄せた文章の中で、こう書いている。

「私は彼の彫刻が好きだ。それらはしばしば、ありえない大洪水の流れによって街路へ運ばれてきた巨大な石のようだ。時間と、流れる水に磨かれて」

2000年、フィレンツェ市内のルネサンス期の歴史的な8つの場所に、安田先生の12点のモニュメンタルな作品が置かれた展覧会を、これ以上見事に言い表す言葉があるだろうか。さらなる敬意のしるしとして、フィレンツェ市はボーボリ庭園に安田先生の3作品を恒久設置した。500年の歴史をもつルネサンス期の庭園に現代彫刻が迎え入れられたのは、これが初めてだった。レンゾ・ピアノ先生、大切にしてきたこの関係をシドニーに託してくれて、本当にありがとうございました。

このコラボレーションがいかに有機的に生まれたかを知って、「Touchstone」への誇りはさらに深まった。オーロラ・プレイス自身の説明が、それをよく伝えている。

「芸術家がプロジェクトの初期段階から参加することは稀であり、建築家と直接協働することも稀である。しかしオーロラ・プレイスは違った。デベロッパーはプロジェクトの開始時点から建築家と芸術家の結びつきを促し、その結果、環境と調和して佇む有機的な作品が生まれた」

この考え方は、芸術家を支えることについて、私自身が大切にしてきた感覚と響き合うものだった。

私が日本で受けた修練は茶道である。京都で40年近く真剣に稽古を積み、東京の国立大学では、茶の湯、能、連歌を中心とする室町時代後期の日本の大いなるルネサンスについて、学部卒業論文を書いた。茶道は、芸術家との関係を築き、その仕事を支える術を教えてくれた。その最も徹底した形は、茶道の家元と、茶の湯を成り立たせる道具を代々手がけてきた十の職家との、何世紀にもわたる関係に見ることができる。

1983年、大学院での研究のためキャンベラに戻った私は、オーストラリア国立美術館の初代館長ジェームズ・モリソンに出会った。2020年に亡くなるまでの37年間、彼は私のメンターであり続けた。モリソンは、一国の美術コレクションを築き上げた偉大な人物の一人で、オーストラリアの世界美術コレクションを何もないところから築いた。そして私に、芸術家との関係を育み、そのキャリアを長期にわたって支える方法を教えてくれた。私はやがて約150人の若いオーストラリア人芸術家の作品を深く収集するようになった。毎年インタビューを重ね、真の友情を育み、それぞれのキャリアの転機には重要な作品を収集し、習作のスケッチやマケットを含め、作品の成立を支えた資料も集めた。このコレクションはその後、私の生まれ故郷パースの西オーストラリア州立美術館と、大英博物館の版画素描部門に寄贈された。

だからこそ、シドニーでもっとも格式ある場所の街角に立ち、安田先生とピアノ先生の間にある温かさを感じたとき、私は自然にそれに応えることができたのだと思う。東京にいた頃、私は三井不動産による六本木の東京ミッドタウン開発を注意深く見守っていた。旧防衛庁六本木基地に接する路地の奥にあった自宅の隣に、何が建つのか不安だったのである。私の家は、偉大な建築家・坂倉準三先生の設計だった。そこは驚くべき一角だった。階下には坂倉夫人が暮らし、隣には建築家の磯崎新先生と、そのパートナーである芸術家・宮脇愛子先生が住んでいた。敷地の前面では坂倉先生のご子息が建築事務所を営み、磯崎建築事務所も脇道を入ったところにあった。建築と芸術の世界の錚々たる顔ぶれに囲まれていた私は、この場所を何としても守りたいと思っていた。坂倉家は家の前面に小さなギャラリーを構え、ほぼ毎週金曜の夜にオープニングを開いていた。ル・コルビュジエのスケッチ展であることも多かった。坂倉先生は7年間、ル・コルビュジエのアトリエを率いていたのだから。

私が日本を離れる頃、旧防衛庁本庁舎の土地が売りに出された。もとは萩藩毛利家、現在の山口県にあたる地域を治めた大名家の、江戸期の下屋敷だった場所である――こういう細かな話をすると、今でも友人たちにからかわれるのだが。私は不安だった。東京で暮らしていた間、窓の外に広がる、毛利家の江戸屋敷の時代から残る何百本もの大きく育った木々を眺めて、心を休めてきたのだから。私が東京を発つのと入れ替わるように所有権は三井不動産に移り、2004年5月に工事が始まった。2007年3月30日、私は東京ミッドタウンのグランドオープンのためにその場所に戻った。懸念はたちまち和らいだ。旧防衛庁の敷地から約140本の樹木が丁寧に移植され、ミッドタウンの緑地として保存されていたのだ。毛利屋敷の石組みの排水路に使われていた石も、擁壁として再利用されていた。一般に開かれるまで400年にわたって閉ざされてきたこの土地の歴史と、静かに、物理的につながっていた。

この新しい環境の中で、安田先生の二つの作品が訪れる人々を迎えていた。地上には、今やおなじみとなった黒いブロンズの「妙夢」。4年前に札幌駅前に設置された白大理石の彫刻と同じ題名を持つが、別の作品である。札幌と同じように、東京の人々もすぐにこの作品を自分たちの街の一部として親しむようになった。買い物や食事の前の待ち合わせ場所となり、待っている間には子どもたちが遊び、やがて街のささやかで静かな誇りとなった。開業日にミッドタウンを歩いていた私は、地下にもう一つの安田先生の作品を見つけ、さらに心を打たれた。六本木駅に直結する地下プラザに置かれた、18.5トンの白いカッラーラ大理石。それが「意心帰」だった。この題名が後に、北海道・洞爺湖畔にある、同じ名を持つまったく異なる作品へと私を導くことになる。

この二つの彫刻は、大規模な都市開発が最良のかたちで実現されたとき、どのようなものになり得るのかを示していた。環境と歴史を尊重し、都市で暮らす人々の生活の質に、確かな価値を加えていく。そのような開発である。

現在私は、ニュー・サウス・ウェールズ州立美術館のために、日本への美術ツアーを案内している。美術館のスタディツアーとして直接行うものと、ルネサンス・ツアーズ・シドニーの「ワールド・アート・ツアーズ」プログラムを通じて行うものの両方である。安田先生への敬愛から、2018年には洞爺湖とアルテピアッツァ美唄を訪ねる北海道ツアーを企画した。ところが札幌行きの便に搭乗しようとしたまさにそのとき、2018年9月6日、北海道胆振東部地震が発生した。洞爺湖周辺は再び大きな打撃を受け、そのことが、湖畔に立つ安田先生の心揺さぶる作品――こちらも「意心帰」と題されている――の持つ意味を、私の中でいっそう深いものにした。この作品はもともと、1977年の有珠山噴火の被害を受けた洞爺の町を支えるために設置されたもので、1987年に設置され、やがて湖岸に連なる彫刻公園へとつながっていった。その前に立つと、安田先生の人間性と、人と人との交感への思いが強く伝わってくる。

 

意心帰 洞爺湖、北海道

意心帰 洞爺湖、北海道

 

同じ資質は、1992年に開園した、故郷への記念碑的な贈り物であるアルテピアッツァ美唄にも、紛れもなく現れている。美唄については、すでに多くの賛辞が書かれてきた。私は、延期を重ねた2018年のツアーを、2025年にようやくルネサンス・ツアーズ・シドニーとニュー・サウス・ウェールズ州立美術館のために実現した。安田先生のご子息が25名の一行を案内してくださり、その日、地元の人々のために「こころを彫る」授業を開いていた安田先生ご本人も昼食に加わってくださった。一行はたちまち安田先生の彫刻に、そして芸術家本人に魅了された。ツアー全体の紛れもないハイライトだった。誰もが安田先生との会話を楽しみ、「Touchstone」プロジェクトを通じてシドニーと出会った頃の話を聞き出しては喜んだ。一人だけ、恥ずかしがって最後まで遠慮していた参加者がいた。出発の間際、彼女は静かに安田先生のそばへ歩み寄り、母語であるイタリア語で語りかけた。この訪問にどれほど深く心を動かされたか。そして、これほど人間的で、人と人とを結ぶ芸術体験の創造者に会えたことが、どれほどありがたかったか。

私たちは高揚した気持ちで、美唄と洞爺湖を後にした。

自分たちの街シドニーへの誇りと、芸術に生涯を捧げる安田先生への感謝とともに。

 

ニュー・サウス・ウェールズ州立美術館による日本への美術ツアー

ニュー・サウス・ウェールズ州立美術館による日本への美術ツアー

 

ジョン・マクブライド AMによるアルテピアッツァ美唄に関するテキストは こちら

ジョン・マクブライド AM
2026