石の声を聞きながら…… 安田の彫刻 ミラノ「彫刻の道」展によせて
大岡信 詩人
カラーラ、マッサ、ピエトラサンタ。
地球という感星がみずからの胎内からしぼり出した
最も美しいしずくの一つである大理石が、
この地帯に集中して埋もれている。
日本の北端の大きな島北海道に生まれた彫刻家安田侃は、
今ピエトラサンタの一遇に住んで、
巨大な大理石の石塊から彫刻を掘り出す仕事に没頭している。
彼がやっていることは、
ミケランジェロがこの地で五百年前にやっていたことと変わらない。
その意味では、彼の仕事は長い彫刻の歴史の突端にあって、
ほんのわずかばかりその歴史を前へ押し進めようとする仕事にほかならない。
ほんのわずかばかり歴史を前へ押し進めること。
芸術家にとって、これほど偉大な目標がほかにあろうか。
わけても、地球と同じほどの年齢の石を相手に、
黙々と鑿をハンマーで叩きつづける彫刻家にとって。
石は常に黙って待っている。彫刻家は常に石に呼ばれている。
けれども、石の深い声を開くことのできる彫刻家の数は限られている。
石の声を聞き、石がみずから欲する形と輪郭に沿って削ってゆき、
石の内部から「彫刻作品」と呼ばれるものを彫り起こすこと、
そのようにして石と人間との奥深い親愛感、
あえて言えば恋愛関係に、一つの明確な形を与え、
「作品」と呼ばれる子供を新たに世界に生み出すこと。
石の彫刻家にとって、
これほど喜ばしい自己実現と自己解放のドラマはないだろう。
安田侃がピエトラサンタでやっているのは、
この単純きわまる、そして同時に困難きわまる彫刻家の真実を、
日々追及することにほかならない。
彼は大理石の彫刻家としては、
現代で最も巨大な作品をつくる芸術家の一人であろう。
彼が用いる大理石の原石は、四十トンにも達する。
それを削りに削って、
その内部から石が何億年ものあいだ大事に隠してきたその石独自の形を探り当て、
その形を新たに陽光の当る場所に引き出してやる。
その作業の間に、石の重さは半滅するだろう。
三分の一にもなるだろう。
そして彫刻作品が、外皮をどんどん削り落としてゆく作業の中から、徐々に出現する。
いったん削り落としてしまったものは二度と帰っては来ない。
うっかり削り落とした石塊の中に、
世にも美しい曲面が隠れていたかもしれないのだ。
安田侃の仕事は、たえずこの厳しい取捨選択の中で営まれている。
付け足すということを厳しく拒み、ひたすら削ることによって侃の彫刻は成り立っている。
彼の作品のいさぎよさはそこから来ている。
彼の作品の形態は、単純さの極致だが、内側からしだいに姿を現す形態だから、
その含んでいる豊かさは、まさに成長する胎児の豊かさなのである。
四十トンもの大きさの原石ともなれば、
素材としての石そのものを探すこと自体、
きわめて困難であり、よほどの幸運に恵まれねばならない。
すばらしい素材であり得たはずの巨石が、中央部にわずかな裂目があっただけで、
彫刻制作には不適格であるという場合だってしばしばあろう。
その場合には、彫刻家は次の良材が山から彫り出されるまで、辛抱強く待たねばならない。
侃の作品ほどの大型の大理石彫刻になると、
それがついに仕上げられたというだけでも、すでにして稀な幸運の結晶なのである。
ましてや、それが悠々とそれ自身の悠久な時間の中で呼吸しながら、
私たちに「別の時間」の現存を力強く語りかけ、
地上の儚い生命の営みの中にも悠久な時間の影が落ちていることを、
力強く暗示してくれるような場合には、私たちは特別な喜びと幸福感を、
この彫刻からの贈物として受け取らずにはいられないのである。
安田侃の彫刻は、そのような幸福感を与えてくれる現代では稀な作品である。
彼の作品群がー九九ー年春から夏にかけて街頭に展示された
ミラノのヴィットリオ・エマヌエレ二世通りでは、
青年たちは彫刻に腰かけて談笑し、恋人たちは彫刻に背をもたれ、
じかに地べたに座って手をとり合ったまま、いつまでも幸せそうに微笑んでいた。
子供らは子供らで、彫刻の胴にあいた穴をくぐり抜けては隠れんぼ遊びを続け、
彫刻作品はそのたびにミラノのまちを讃えて静かな吐息を洩らした。
侃の作品展はミラノ市民にあまりにも愛されたため、
市当局は通常の展示期間二カ月の倍の長さに期間を延長し、
ヴィットリオ・エマヌエレニ世通りの遊歩道を侃の作品群の気品と優雅さと
堂々たる存在感とで満たしたのだった。
侃の彫刻は、それに接する人々に、
彼ら自身の解放され、くつろいだ自我を、
知らず知らずのうちに取り返させるのである。
人々はそれが安田侃という一人の彫刻家の作品であることさえ忘れて、
ただ美しい大理石の曲面やヴォリュームを、眼で触り、体で想像し、手で記憶する。
侃は自己主張するよりは、
むしろ自己の全身を彫刻という石の中に埋没させることを選ぶであろう。
当然である。
石の生命に較べれば、われわれ一人一人の生命など、
大海の中のしずく一つにも及ばないほどなのだから。
しかし、その短い生命しか持ち得ない人間だからこそ、
石の小声の囁きにも耳をとぎ澄まして聴き入ることができるのだ。
「おい、ここを彫れ、あそこを刻め」という石の囁きに。

意心帰 ミラノ市主催「彫刻の道」展 Photo by Romano Cagnoni