安田侃の捕神術
桑原住雄 美術史研究家
いわゆる近代彫刻が西欧モダニズムの仮説のなかに閉じこもってきたあと、
モダニズムの呪縛から抜け出て造形の可能性を全方向へ向けて開いたのが現代彫刻である。
彫刻はローカルな西欧彫刻の因襲を越えて、
普遍へ向けて自己解放を行いつつあるといえるだろう。
イタリアに住む安田侃はその典型的な作家である。
安田の普遍は大自然との交感を場として成立する。
大自然のエネルギー(神)を立体造形によって喚起し、
その呼び醒されたエネルギーを荷電することで彫刻であることを超える。
そのとき彫刻は物質であることから脱出して、
メタフィジカルなシンボルに異化される。
たとえば軽井沢セゾン現代美術館の庭に展開する「天モク(※)」「天聖」「地人」という
一連の造形(1985年)は安田のコンセプトを最もよく示している。
この三体は、ゆるやかに傾斜する芝生のスロープに上から順に並べられている。
「天聖」の地点から「天モク(※)」を見上げると、
「天モク(※)」のうしろ遙か彼方に浅間山の山頂が聳えている。
山頂の中心は「天モク(※)」と「天聖」を結ぶ軸線から僅かに左にそれる。
低いところに位置する「地人」(ブロンズ)は軸線から大きく外れて控えている。
ここで気づくのは、
浅間山と「地人」とが天を冠した二点の造形を介して相対峙する構造である。
ご神体浅間山の山霊は二点に促されて顕現(エピファニー)し、
二点のワクのなかを通って「地人」まで下降する。
「地人」のケをハレに変換したあと再び上昇し、
二点の軸線を通って山嶺に還る。
荒削りの白大理石による「天モク(※)」と「天聖」は山霊を捕捉するワナであり、
山霊は仕掛けとしてのワナを通って天上と地上を往還するのである。
二点は白木を石に読みかえた神の依代(よりしろ)だろう。

天聖、天モク(※) 軽井沢セゾン現代美術館

地人 軽井沢セゾン現代美術館
「意心帰 — 棒」(1978年)も広大なゴルフ場の一角に置かれた造形だが、
セゾン現代美術館の造形群とはちがった性格をもっている。
一見、禅的な心機性を暗示するようだが、
瓢鯰図にみられる禅機の提示ではあるまい。
ここには意識と深層の無意識とを串刺しにして白昼に抛り出す
あっけらかんとした知の仕掛けがある。
現代の一切を無と直面させる戯作者の設問とみておこう。
ミラノの街頭個展の作品「妙夢」(1990年)が
大聖堂の過激な垂直幻想を背景にしたとき俄かに生彩を帯びるように、
そして洞爺湖畔の「回生」(1984年)が大自然の脈動を
自身の胎内に吸い取るように、安田侃の造形は、
ある状況のなかで時空にかかわる無限を一瞬のうちに現存化させようとする。
ときとして天啓のように開示される悠久感に私たちは酔うのである。
※モクはさんずいに禾

妙夢 ミラノ「彫刻の道」展 Photo by Kozo Watabiki