かたちを超えて 安田侃 ピエトラサンタ展によせて
ウゴ・コッル 哲学者
安田侃の世界において、無常はつねに人生の軸である。
安田侃の彫刻における「ダイモン(daimon)*」は「本質」である。この本質こそが彼が世界的に評価される理由である。
作品は驚嘆に満ち、唯一無二の存在である。
1970年、25歳で(イタリア政府の招聘により)国費留学生としてローマ・アカデミア美術学院に入学し、安田は自身の理念を深めた。しかし、その理念を「永遠の都」をめぐる中でさらに強固なものにした。彼は思索にふけりながら、ローマの美術館、広場、モニュメントを幾度となく鑑賞した。到底達することのできない美を宿す数々の傑作の中でも、彼に強い印象を残したのは、多くの教会を美で満たそうと挑んだミケランジェロの大理石だった。この出会いが、根源的な情熱の芽生えをもたらした。
朝には雪が輝きを放ち、日暮れには夕焼けが胸を打つ。ヴェルシリア地方、アプアーネ山脈の麓を、彼が留学後の半永久的な住処と選んだのは、決して偶然ではない。ピエトラサンタでは、芸術家のためのスタジオを開きたいと構想していた若き石工、ジョルジョ・アンジェリに出会った。アンジェリと意気投合し、堅固なパートナーシップを築くことになった。
こうしてミケランジェロの山は、安田の恒久的な工房となり、この山こそが、挑戦すべき大理石を探し求める巡礼の地となったのである。
著名な人類学者ガストン・バシュラールによれば、「物質的想像力」とは、人間に内在する意志の原型を喚起する力である。
「硬いもの」(石)と「柔らかいもの」(粘土)は、アーティストと競り合おうとする。粘土は「イエス」と応じる素材だとすれば、石は「ノー」を突きつけ、頑なに抵抗する素材だ。そして石の中でも、最もしぶとく頑固なものが、まさに大理石である。大理石からの挑発は、避けることのできない闘いを予感させる。
大理石は、時の果てから始まる火と光の宇宙的変動を経て、物理と化学の驚異的な錬金術をともなって、幾千年もの歳月をかけて形成された。結晶が湧き出すほどに圧縮された大理石は、侵されることのない、頑なで密閉されたエネルギーを宿してきた。大理石がアーティストに抵抗する理由は少なくない。しかしアーティストにもまた、諦めない理由が多数ある。この石に刻まれた元素の苦闘に満ちた歴史、そして私たちの起源を彼は理解しようとしている。
安田は語る──大理石の中に宿る時間の深層をひとつずつひもとき、そこにある織り目やひだに触れたいと。その目的は、大理石の断片とともに、眠りに沈んでいた豊かさと、埋もれたエネルギーを呼び起こすことである。それは、驚くべき発見に満ちた、果てしなく大胆な探究の始まりであった。
安田の彫刻は、生き生きとした「啓示」そのものであり、周囲のすべてと語り合う。彫刻の内なるエネルギーは、それが置かれる空間の中で計り知れない可能性を解き放つ。作家も述べるように、彫刻は「反響」し、引力を生み出し、周囲の空間構造や領域と対話する。かたちを変容させ、視線を導く。そして人の深奥を揺り動かす。
彫刻を観た者は一瞬息をのむ。だが、視線はそこにとどまらない。彫刻に引き寄せられ、その中を通り、触れ、包み込まれていく。彫刻はすなわち「空間」を「場所」へと変容する「磁場」をつくり出すのだ。
このような「場所」においてこそ、彫刻が放つエネルギーの振動は観る者に届く。私たちは、まるで身体が自ずと方向を見出すかのように感じる。これは心が安らぐ感覚である。
安田侃の世界において、無常 ** はつねに人生の軸である。
ゆえに彼の活動は、主流とは異なる彼独自のグローバルな価値観のもとに発展している。彼は、迷うことなく快活に、心と頭に刻まれた世界観の筋道を描いていく。彼の作品は、自然の摂理を受け入れ、のびやかで無垢な精神を特徴とする。
彼の生み出す「完全な美」には、非対称性と不完全すらも含んでおり、それらは自然そのものの神秘を映し出している。むしろ、この非対称性と不完全こそが、想像力に語りかけ、刺激するのである。それによって観る者は、創作に参加する者となる。
人間は、地球上に現れた最後の生き物である。自らの起源を理解しようとするならば、私たちの祖先の存在の軌跡を識別し、読み解く力を養わなければならない。石とは、その歴史の軌跡が残っている宝箱のような存在である。石は、凝固した書籍のようであり、その中には、積み重ねられた時間を通じて映された、宇宙の像が蓄積されている。石の中には、私たちを過去へとつなぐ、巻き上げられた糸が潜んでいる。石は、たんなる静止した物体ではない。人間は地球に姿を現した瞬間から、石もまた人間とともに歴史をつくり続けているのである。
多くの先住民族の文化において、人間と自然は分かちがたく結びついている。「人間と人間でないものは、生き物というひとつの家族を成す」。この大いなる家族は、それぞれの種の間に、序列と安定性といえる関係性と均衡を築いている。今もなお多くの民族は、石を「生き物」として捉えている。生き物たちの中のひとつの存在。重大な価値を持つ、生命エネルギーの守護者。祈願する善良な資源でありながら、避けなければならない呪いを秘めている。多くの伝説に見られるように、石は今でも、あるときは崇拝の対象として敬われ、またあるときは畏怖の対象として恐れられている。
自然に命が宿るという考えは、西洋思想とまったく無縁であったわけではない。その例のひとつとして、トマス・アクィナスの師であったアルベルトゥス・マグヌス(1206-1280)の思想が挙げられる。神学者でありながら博物学者でもあった彼は、『デ・ミネラリブス(鉱物の神秘的な性質について)』において、石にも魂が宿ることを論じていた。
このような世界観の奥深さをよく表す禅の言葉がある。「一は全、全は一」。
これはスピノザにみられるような、神がすべてであり、すべてが神であるという汎神論とは異なる。この言葉はむしろ、この世に存在するすべてのものが必然的に、相互につながっているという考えを表す。私たちは皆、宇宙を構成するあらゆる要素からできており、その要素はそれぞれの中に、同じように相互作用している。
私たちは世界を根本から見つめ、生命をその内側からつかめるという奥義をものにしなければならない。根本こそ我々を支えている。そして私たちは、その根本が示す先へと照準を合わせなければならない。
安田侃の彫刻には、それが何を意味しているかを規定する名称があるわけではないようにみえる。実物を見ないでは、何を表しているのかを語るのも難しい。はっきりと定義された名称がなく、物体との類似もない。もしかすると、何も表していないかもしれない。いや、むしろ――無数のものを同時に表しているのだ。ブルーノ・ムナーリが述べるように「何をも表象しない作品は、あらゆるものを内に籠めている」。
壮大なプロポーションとともに意思を持って生み出されたミニマリズムは、簡潔さによって創造性、普遍性、実在性が立ち現れることを再発見した特異な表現スタイルでありパラドックスである。
安田彫刻の特殊性は、絶対的で、原始的である。散在する石のように「常に存在し、自然発生するもの」であり、儚く、無重力のように感じる。数トンにも及ぶ重量は、かたちの完璧な均衡によって、まるで空っぽの器のように見える。観る者には、小さなオブジェや首飾りのようにさえ感じられるのである。
何よりも安田彫刻は、観る者の心を揺さぶり、語りかけ、呼びかける。そのあまりの美しさを前に、誰もが聖なる沈黙に包まれ、浮遊しているように感じる。
有珠山の噴火、および泥流被害で命を落とした子どもを悼むために設置された《意心帰》。その設置後に起きた素晴らしい出来事がある。
彫刻は集会と拝礼の場所となり、故人の魂が宿っているかのように愛情を注がれている。
彫刻は、まるで芝生や地面の上に以前から在ったかのように、空間から自ら咲き出してきたようである。だからこそ、人は彫刻を見た瞬間、馴染み深いかたちを前にしていることに驚き当惑し、誰しも目が離せなくなる。その物体に触れ、なでたい気持ちになる。その間を通り、そこに潜んでいる声に耳を澄ませたくなる。安田彫刻は生きている。その神秘の生命力をつかみたいと、誰もが思うようになる。もし専門家が解釈するならば、彫刻は夢の深層、無意識の奥深くに刻まれ活動を続ける祖先の象徴的な堆積物、元型(アーキタイプ)のかたちであるとするかもしれない。
安田侃の彫刻は、関係性を通して定義され、内容を帯びるようになるといえる。その関係性とは、たとえば周囲にある物体のボリュームとの比較、地理的な位置づけ、あるいは観る者の心理との交感である。だが、これは自動的に起こる現象ではない。
彫刻の完成度の高さが、対話を許さないと思われがちである。つまり、彫刻の持つ「意味」は、対話の外で自発的に生まれることになる。しかし安田彫刻における完成度の高さはむしろ、オープンである。対話者に新たな創造の衝動を呼び起こす。「空」と「有」はお互いを呼び合い、育み合う。観る者を不安にもさせる問いかけをはらみながら、語りかける。その軽やかなひと突きが好奇心を掻き立て、うわべを超えるように観る者を誘う。
それは、精神の崇高な戯れである。幻、夢、希望。そして神秘。その神秘の前では、理性は沈黙に落ちる。「直観」のみが姿を見せる。
『自然について』においてヘラクレイトスはこう述べている――「デルポイの神託の主は、その意味を口にすることも、隠すこともなく、しるしで示す」(『断片集』John Burnet、Masami Kiyono訳より)。つまり、神は象徴を通じて、私たちに語りかけるのである。
これらの象徴からインスピレーションを得た芸術は、美学よりも人生の最も根源的な問いに関わっている。つまりそれは、存在の意味の探求である。
作家自身が述べるように、「私の創作は、夢を見たい人に夢を与える役目がある。思考を阻害するのではなく、その思考を自由に広げさせなければならない」。
創造のプロセスが途絶えることなく続くように。そして美しさが、作品に触れた者に、たしかに伝わるように。
* 「ダイモン」とは、人間と神の間にある内なる力を指す古代ギリシア語である。ソクラテスにとっては、真実と正義を目指す行動の原動力であった。
** 日本文化において「無常」は、現実の基本原理のひとつである。それはすなわち、可変性である。万物は不変ではなく、常にかたちを成し、そのかたちを変えていく。万物は常に流転し、同じ姿を保つ物はない。

天聖、天モク ピエトラサンタ「かたちを超えて」展 Photo by Nicola Gnesi