安田侃 《Isole del Silenzio(静寂の島)》ヴィルモット財団にて

I. 沈黙の中へ入る

私たちはこの展示室に足を踏み入れ、何かが変わった。それは、光だけによるものではない。壁の白さによるものでもない。それは、理解するよりも先に起こる何かである。ざわめきが止んだのだ。耳に聞こえる音のことではない。その音はまだ、弱められ、遠くに、残っているかもしれない。止まったのは、内なるざわめきである。思考、通知、義務、期待――目覚めているあいだのあらゆる瞬間につきまとう、途切れることのないサウンドトラック。ここで、この10点の大理石彫刻を前にすると、私たちの内なる何かが静止する。そして、その静止の中で、本質的な何かが始まる。

このインスタレーションを構想した日本人彫刻家・安田侃は、明確な題名を選んだ。《静寂の島》。山ではなく、大洋でもなく、砂漠でもない――島である。島とは、限られた場所であり、何かを渡らなければたどり着くことのできない場所である。日常という大陸から、水の隔たりによって切り離され、その隔たりを渡ろうとする意志を求める場所である。

島には自然の境界がある。しかし、その内側では、生命がそれぞれ固有の法則に従って花開く。ここにある一つひとつの彫刻は、島である。物質と意味からなる自律した領域であり、他の彫刻からへだてられ、自らの空間の中で呼吸している。そして、島と島のあいだにある空間――白く、空虚なその間隔――は、不在ではない。それは、海である。それは、ほかのすべてを成り立たせる沈黙である。

今日、私たちは沈黙の美学と倫理について語ろうとしている。この二つの言葉は遠く離れているように見えるが、実は手を取り合っている。美学は、知覚、美、感覚的な経験に関わる。倫理は、行動、選択、そして私たちがどのように生きることを選ぶのかに関わる。沈黙は、その両方を貫いている。沈黙は、美学的なカテゴリーである。なぜなら、それは知覚され、そこに身を置くことができ、私たちの世界経験を変えるからである。そして沈黙は、倫理的なカテゴリーでもある。なぜなら、沈黙を許容しない社会の中で沈黙を選ぶことは、ひとつの道徳的行為だからである。それは、ひとつの立場表明である。

II. やわらかくなる物質

これらの彫刻を見てみよう。大理石は、西洋美術が知るなかで、最も古く、最も深い歴史を内包する素材のひとつである。パルテノン神殿、《ピエタ》、《ベルヴェデーレのアポロン》を思い浮かべてほしい。大理石はつねに、永遠、権力、完全性を物語ってきた。しかし、こうした記憶を蓄えた大理石に対して、安田侃の彫刻は思いがけないことを行っている。それを、やわらげているのだ。かたちは丸みを帯び、やわらかく、ほとんど有機的である。攻撃してくる角はない。支配する頂点もない。あるのはむしろ、やさしさであり、手を誘い、触れることを促し、「ここで立ち止まってよい」と語りかける曲線である。

これは、作家による第一の大きな美学的操作である。重さを用いて、軽やかさを呼び起こすこと。大理石は重い。私たちはそれを知っており、目にもしている。その質量は現実のものであり、疑いようがない。しかし、彫り出されたかたちは、その重さを、浮遊する何かへと溶かしていく。まるで石が、呼吸することを覚えたかのように。まるで最も硬い物質が、ひとつの祝福として、自らをやわらかなものにしようと決めたかのように。

ここには、明確な哲学的教えがある。重さは、軽やかさの敵ではない。物質は、精神の敵ではない。一方を他方へと変容させるのは、かたちであり、配慮であり、意図である。沈黙も、まったく同じように働く。騒がしさが義務のようになった時代に、自らの生活の中へ沈黙を持ち込むことは、強さと決意、さらには勇気さえ必要とする行為である。それでも、いったん沈黙にたどり着くと、沈黙は私たちを軽くする。解放する。私たちの内に空間があることを感じさせる。日々積み重なる層の下で、失われたと思っていた空間である。大理石の彫刻は私たちに教えてくれる。軽やかさは物質を拒むことによって見いだされるのではなく、知恵と愛をもって物質に働きかけることによって見いだされるのだ。

III. 事物のあいだにある空間

このインスタレーションに入ると、視線に先立って生じる感覚がある。知覚が宙づりになるような感覚である。まるで時間がわずかにゆるやかになり、空気がより薄くなるかのように。パリのアジャンス・ヴィルモットが手がけた舞台構成と照明は、まさにこの感覚に働きかけている。床から作品を視覚的に浮かび上がらせる斜めからの光、そして作品の上部の表面を撫でるように集中して注がれる光の束。それは、明らかにする光ではない。宙づりにする光である。それは、照らす光ではない。聴く光である。

このような空気の中でこそ、日本の美意識において「間」と呼ばれるものの意味が、真に理解される。それは、ヨーロッパの諸言語には正確に対応する語を持たない概念である。それを表す文字は、門を通して光が差し込むさまを示している。それは、事物のあいだにある空間である。二つの音のあいだにある休止である。言葉と言葉のあいだにある間隔である。呼吸である。それは空虚ではない。日本の伝統において、空虚は決して不在ではないからである。むしろ、可能性に満ちた空間であり、事物が重なり合うことなく、互いを消し合うことなく、それぞれの固有性において存在することを可能にする空間である。

このインスタレーションは、「間」の上に成り立っている。10点の彫刻は、ひと目で捉えられるようなまとまりのある群れを形成していない。それらは、島のようにへだてられている。一つひとつが、近づくこと、立ち止まること、時間をかけることを求めている。そして、それらのあいだにある空間は、次の作品へ急ぐよう促すものではない。むしろ、ゆっくりとそこを渡り、ひとつの存在から別の存在へと移るなかで、空気の質がどのように変わるのか、光がどのように変わるのか、私たちの呼吸がどのように変わるのかを感じるよう促している。この距離の中に、インスタレーションの音楽性がある。大きな楽曲においてそうであるように、時の流れをつくるのは音のない間なのである。

そしてまさに、この空間の音楽性において、美学は倫理へと開かれていく。私たちが調和として知覚するものは、そのまま、世界の中に身を置くひとつのあり方となる。実際、ここには名づけておくべき、暗黙の倫理がある。事物のあいだにある空間を尊重することは、作品であれ、人であれ、思考であれ、あらゆるものには、それ自身として十全に存在するための余地が必要なのだと認めることである。

私たちの時代が抱える病理のひとつは、圧縮である。私たちは時間を圧縮し、関係を圧縮し、思考を圧縮している。スクロールし、通り過ぎ、ひとつ前の内容を消化するよりも先に、次のコンテンツを消費していく。私たちのデジタル生活には、「間」がない。ひと息つく間もない。そして間がなければ、すべては平板になる。経験も、感情も、思想も。沈黙は、生の反対ではない。生が深さを持つための条件である。

IV. 引き算によって生きる

私たちは、蓄積の文明の中に生きている。物、情報、経験、関係、いいね、フォロワー、実績、目標を蓄積している。市場は、加えることが成長と同義であり、より多く所有することが、より多く存在することに等しいのだと私たちに信じ込ませる。ソーシャルネットワークは、私たちのアイデンティティさえもコレクションへと変えてしまった。私たちはもはや瞬間を生きるのではなく、それを保存する。承認を求めるのではなく、追いかける。自分自身を築くのではなく、見せるための自分をつくる。このような文脈において、沈黙はひとつの転覆的な行為である。沈黙を選ぶことは、蓄積の論理を拒むことを意味する。必ずしも何かを足さなくても、人は存在できるのだと表明することである。

禅僧・鈴木俊隆はこう語っている。「初心者の心には多くの可能性がある。しかし専門家といわれる人の心には、それがほとんどない。」沈黙とは、この初心者の心を実践することである。可能性を迎え入れる空間をつくるために、自らを空にすること。それは諦めではない。受け身でもない。内なる空間をつくり出す、きわめて能動的な行為である。禅の瞑想からキリスト教の祈り、スーフィズムからストア派哲学にいたるまで、世界中の観想的伝統は、この一点において重なり合っている。本質的なものは、足すことによってではなく、引くことによって見いだされる。見いだすためには、取り除かなければならない。聴くためには、沈黙しなければならない。

10点の大理石彫刻は、この真実を稀有な力強さで体現している。その一つひとつにおいて、作家は取り除いている。余分な石を取り除き、複雑さを取り除き、かたちにとって必要ではないものすべてを取り除いている。そして残されたもの――あのやわらかな曲線、あのやさしい重み――こそが、本質的なものである。本質的なものとは、最小のものではない。本質的なものとは、最小限の手段によって得られる、最大限の意味である。ふさわしい場所に置かれた、ふさわしい言葉である。正確な身振りである。ひとつの音が終わったあとも、空気の中に残る響きである。ここにある一つひとつの彫刻は、取り除くことについての論考である。必要なるもののマニフェストである。

引き算の倫理は、所有物や物質的な消費だけに関わるものではない。それは、私たちと時間との関係にも関わっている。私たちが自らに許す一つひとつの間――何もしないこと、生産しないこと、応答しないことを選ぶ一つひとつの瞬間――は、返還の行為である。私たちは時間を自分自身に返し、内面に空間を返す。それは浪費ではない。守ることなのである。それは蓄積の反対である。時間のすべてを集めて埋め尽くすのではなく、いくつかの瞬間を、空のまま、呼吸するまま、まだ自分が何を探しているのか知らないものに向けて開かれたままにしておくことなのである。

V. たどり着く場所としての沈黙

私たちはしばしば、沈黙を出発点として語る。瞑想するため、創造するため、思考するために必要な条件として。しかし、沈黙はたどり着く場所でもある。《静寂の島》が私たちに示しているのは、こういうことである。沈黙は手段であるだけではなく、目的でもある。沈黙の中へ向かうのは、それを使って何かをするためではない。沈黙の中へ向かうのは、そこにとどまるためである。在るためである。急かされ、成果を求められる日々の層の下で、騒音に埋もれてしまった自分自身の一部を取り戻すためである。

これらの彫刻のひとつの前で立ち止まるとき、何が起こるのかを考えてみてほしい。身体はゆるやかになる。呼吸はより深くなる。目は走ることをやめ、見ることを始める。そして、そのゆっくりとした見ることの中で、何かが開かれる。それは必ずしも、壮大な考えや啓示とは限らない。多くの場合、もっと素朴なものである。存在しているという感覚。いま、ここに、この空間に、この身体に、この瞬間に在るという意識である。それこそが、哲学者たちが十全な美的経験と呼ぶものである。それは、イメージをすばやく消費することではなく、時間をかけて、ひとつの経験の中に実際に身を置くことである。

このことを表す日本語もある。「もののあわれ」である。それは「事物の哀感」と訳すことができる。それは、悲しみでも、絶望でもない。すべてが移ろいゆくことを知ったうえでの、やわらかな感受性である。大理石の彫刻は、何世紀にもわたって残るようにつくられている。それにもかかわらず、これらの彫刻はこの感覚を呼び起こす。すべての瞬間は唯一のものであり、ひとつの眼差しとひとつのかたちとの出会いは二度と繰り返されないという意識である。沈黙は、私たちをこの意識に触れさせる。人生は、蓄積された経験の量によって測られるのではなく、その経験の中にどのような存在感をもって身を置くか、その質によって測られるのだと教えてくれる。

ここに、沈黙の倫理がある。それは外から押しつけられる規則ではなく、内側から生まれる選択である。

すべてが加速へと駆り立てるときに、立ち止まるという選択。
すべてが語ることへと誘うときに、聴くという選択。
すべてが加えることを促すときに、取り除くという選択。
すべてが生産することに報いるときに、観想するという選択。

それは容易な選択ではない。沈黙は、内なる抵抗と外からの圧力に抗いながら、日々勝ち取られなければならない。しかしそれは、粘り強く実践されることで、人を変えていく選択である。私たちの知覚の仕方を変える。思考の仕方を変える。他者や世界との関わり方を変える。

私たちは、この展示室を出るとき、何かを携えていく。
それは記念品ではない。写真でもない。
呼吸することを教えてくれた空間の記憶を携えていく。
重さがいかにして祝福へと変わりうるのかを示してくれた、大理石彫刻のやわらかなかたちを携えていく。
島と島のあいだにある沈黙を、私たちの人生における空間の手本として携えていく。
それは、かけがえのない小さな空白であり、それなしには、どれほど満ちたものも意味を失ってしまう。
私たちは、この場所が小声で、しかし揺るぎなく投げかけた問いを携えていく。
あなたが日々蓄積しているもののうち、本当に必要なものは何か。
何を取り除けば、あなたはより十全な自分でいられるのか。

そして私たちは、「沈黙は、本質的な事物の声である」という意識を携えていく。

 

ヴェネツィア「Isole del Silenzio - 静寂の島」展

ヴェネツィア「Isole del Silenzio – 静寂の島」展