安田侃の彫刻について
かつて、安田侃の大理石の彫刻は、一口にいって極めて瞑想的な静謐である、と記したことがある。
瞑想的な彫刻とは一体何を指すのかを私は詳しく説明しなかったのだが、どんなときでも、ある芸術作品はいつも人間と自然との関わりに帰するのだといいたかったにちがいない。 彫刻をつくるのも、瞑想するのも同じ人間であり、人間はいつも自然と対峙した作品を通じて瞑想することができるからである。
安田侃の作品はどんな場所におかれても、その置かれた場所に最もふさわしい新しい自然と風景をつくり出すのは不思議といえば不思議だが、その新しい自然と風景を発見するのはいつも人間であることを考えると、 作品の存在感はいつの間にか存在しない存在感にかこまれていることに気づくのである。
古代ローマの廃墟の中の《天聖・天モク》は、美唄の芝生の上の《天聖・天モク》と同じ自然の空間をつくり出し、その時間をこえた空間をわれわれに提供する。 そして、でき上がった新しい自然はそれまでにそこにあった自然と離れるでもなく正に自然に没入するでもなく新旧二つの一体融合の中で新しい瞑想を生んで見る人の生命に静かにささやき続けるといっていい。
1991年のミラノの都市を背景にした野外彫刻の個展でも、同じ街を背景にしたポモドロの彫刻よりも街にとけこんでいたし、1995年のヨークシャー公園の美しい自然を背景にした展示でも、 同じ大理石たちが語る声は全く変わらない。
われわれは、人間である存在以外の何らかの存在を通して、またはその存在のおかげで生きているのだが、その存在が白い大理石である場合、 その空間のもたらす存在がいかに生きるかを教えてくれる場合をとりわけ多くの瞑想を以て考えなければならないことを安田侃の作品は教えてくれると思う。
このたび、生まれ故郷の北海道で大きな展示を行う安田侃の作品群に眼を離すことはできない。このとき安田侃の作品は北海道の大地にずっと昔からあるように存在するにちがいないのだが、 それは一面からいえば、風景が芸術に、芸術が風景になる、それも極めて瞑想的に新しい自然の空間をつくり出す瞬間に立ち合うことができる。
北海道に新しい自然の風景をつくり出すということは、別の意味でいえばどんなところにも新しい自然をつくり出すという同じ意味をわれわれは経験することになり、 それは、一人の芸術家が残した形ある作品に瞑想という永遠の軌跡を残す存在になるにちがいない。芸術作品が語る生き甲斐を今日のような異常な生活の入口に置くことは極めて必要ではないかとも思う。
井関正昭
東京都庭園美術館館長
2011