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写真:意心帰

安田侃の神話


アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスの古典悲劇、そしてアリストファネスの喜劇の地、スパルタ、カルタゴ、アテネ領域において、侃の「俳句彫刻」は文化間の相違を退ける。 それらは素晴らしい立地のタオルミーナ劇場から海を見下ろす絶景に溶け込む。

劇場の内外、サンタ・カテリーナ教会、大聖堂近く、大通り沿い他、彼のモノリスは天から落ちてきたというより、たまたま風によって描かれたかのようだ。 それは数秒間形をなして露と消え去る巨大な石鹸の泡のようでもある。彼はその瞬間を形とする。白大理石やブロンズの内には、比喩的にそれを「透明」とする真の知覚と触覚がある。

侃の作品についての俳句の定義とは、第一に、ヨーロッパに取り入れられたにもかかわらずそれに温存されている東洋の起源を説明すること。 次に、形式上内容の本質を表現するからである。俳句は美しい文章で、ジャック・ケルアックそしてアレン・ギンスバーグが季節や自然を記述するに際して好んで用いていた。 アートとして、侃のそれは非常に例外的な詩的ミニマリズムである。彼は時間—自然の二つに美学的秩序を生み出す視覚的な詩を編み出す。

わずかな言葉による詩と同様、彼は自然から湧き起る示唆をモニュメンタル彫刻と調和させる。彼にとってはただ一つのフォルムの中に感情の百科事典がある。 空は実となり、その実によって空が歴然とする。大地と空気を結びつける唯一の要素−物体−が創り出される。

一般的な東洋の伝統とは異なり、無限を表現するために彼が大型の作品を選択するのは驚くまでもない。そこに日本的な感性が加わり、作品は場と共鳴し、荘厳な緊張が解かれる。 彼の作品はヨーロッパの主要都市の広場を飾る彫刻のサガの帰結である。 そこでは、祝賀性を控え、場の選択と一貫性のあるサイト・スペシフィックが求められ、アーティストにとっては適切なフレーム、あるいはオペラ展開における参加的要素となる。 まさに60年代ミニマリズムとともに欧州に輸入されたアメリカの流れ「ランド・アート」である。以下の例は彼の彫刻のモニュメンタル性を示している。

1991年にミラノの素晴らしいメインストリートで、約10年後のフィレンツェの道々で、2005年にアッシジで、のちローマのトラヤヌス帝の市場で、いずれも観られた作品。 小さなアテネと言われるピエトラサンタの駅前でも、不可欠で確実な街路公共物となっている。 トリノのヴァレンティーノ公園に置かれた9点のブロンズ−種子やしずくのような形、幾何学的な形、開いた種子鞘と一体となる形−作品群。 それらは最も成功した「パブリック・アート」とされている。タオルミーナにおいて、作品は自然なサイズでコンテクストに繋がる。 古代の住居となる。それに触れずにはいられなく、普遍性に耳を傾け、抱擁し、よじ登る。アーティストと彼の「芸術の故郷」イタリアの特別な関係が強調される。

彼のすべての作品は可能な限り自発的である。感覚を内包し、感応は作品と空間の間にとどまらず、作品と観る者の間にも存在する。

公共の場における個人の住いと言える。その独特に感情的で個人的な喜びの類まれなさは、ただ導かれるのみならず、普遍のリリシズムに通じる。 タオルミーナでの展開は我々に誰のアートが完璧であるかを教えてくれる。侃はマエストロである。 しかし強制するのではなく、むしろ例えとして神話的な形を教えてくれるマエストロだ。我々が彼の作品から学ぶのは、観て、触れて、感じることである。


ルーカ・ベアトリーチェ
美術評論家

2012


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